2011年06月26日
目には見えない大切なもの

今日以前座禅会をさせていただいたお寺でのイベントでした。
座禅会のタイトルにコメントも頂き、改めて座禅のこと、今日のことを振り返っています。
座禅は心を静かにしてひとりで娘と向き合える時間です。
こういう向き合い方もあるのだなあと思いました。
娘がなくなってから、16年になります。
だからできるのかもしれません。
多分これが亡くなってからまだ日が浅ければ
きっと耐えられないような気もします。
何年かたったあるたんぽぽの会のとき、あるお母さんが夢に子どもが出てくると話されたことがありました。
そういえば、娘は一度も夢には出てきたことがないなあと気がつきました。
娘は再発の後、強い抗がん剤を使わなくてはならず、
レントゲンを撮ったときに、骨が写らないほど骨がすかすかになってました。
火葬場の方には、あの状況でよく自分から頼んだなと後で思いましたが、
今までの治療がきつかったことを話し、少し火も時間も短くしてほしいと頼みました。
火葬されて出てきたときには、左右の短い大腿骨と紙のようになった頭蓋骨でした。紙のようになっていたことは、骨を拾うときに気がついたのですが・・・・・・
愕然としました。
形あるものはほとんど残していかなかったのですから。
納骨も早くお墓に入れた方が良いと義父母に言われ
四十九日過ぎたら早々にいれなければなりませんでした。
形あるものはほとんど残さず、去っていった娘に
『どうして??』と思ったこともありますが、
今は目に見えるものがすべてではなく
見えないものの中に大切なものがあることに気がつくことができています。
娘のことだけではなく、すべてのことに対してです。
物もお金も確かに大事です。なくては本当に困ります。
でも人間はそういうものだけで生きているのではなく
目に見えない人とのつながりであったり、
誰かがどこかで自分のことを思っていてくれているということだったり
そういう精神的なものも非常に重要であるように思います。
娘が自分を病気にして、そして亡くなってまでも残してくれた大切な宝物です。
今回の大震災で家も仕事も家族もふるさとの風景もありとあらゆるものを失った方々がたくさんおられます。
多くのボランティアが駆けつけて、多くの物資を届け支援をしています。
確かに生きていくためには大事な支援かもしれません。
震災から100日が過ぎ、報道もだんだん話題性が少ない震災のことはしなくなってきたように思います。
本当に必要な支援は、これからだと思うのです。
目には見えない形には表れにくいものに対して行う必要があるのでしょうね。
仮設住宅がたくさんできて、
一人(あるいは家族単位)という空間で確かにプライバシーは保たれいいのかもしれませんが
孤独と言うものと闘っている方々がたくさんおられるような気がしてなりません。
たんぽぽの会のような会に直接訪れる気力も体力もなく、
物理的にも不可能な方々がおられると思います。
そういう方々にもこのブログを通して繋がっていけたらいいなあと思っています。
昨日のエバリーのコンサートや参加された方々のお話、
ブログに寄せられるコメントを読んで
また震災支援のことから今私が感じていることです。
Posted by わたげ at 04:45│Comments(0)